宗教からよむ「アメリカ」 森 孝一 著
講談社選書メチエ70、1996
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【内容】
多くの日本人はアメリカという国が政教分離した民主主義のもっとも成熟した理想
の国家である、と考えている。しかしこの本では、そのような日本人のイメージする
アメリカが実は幻想にすぎない、と述べている。
アメリカは私たちのイメージする政教分離の国ではない。つまり政教分離にあたる
言葉は「Separation of Church and States(教会と国家の分離)」であり、
「Separation of Politics and Religion(政治と宗教の分離)」ではないのだ。ア
メリカで言う「政教分離」とは政府が特定の教会(宗教)に便宜を図らないという意
味だ。つまり特定の宗教が政治に関わることはアメリカでは「政教分離」の原則に違
反しないのだ。
もともとアメリカはピューリタンが移民して作った国であり、現在でも人口の9割
がキリスト教徒である。さらにその内訳はプロテスタントが6割、カトリックが3割
弱である。さらに2%のユダヤ人口を抱える。またプロテスタントには多くの宗派が
あり、かれらはそもそも分離傾向が強い。著者はこのような社会をまとめるものとし
て、宗派を越えたユダヤ・キリスト教色の強い「アメリカの見えざる国教(市民宗
教)」をアメリカの政体の中に見いだした。
では「見えざる国教(市民宗教)」とはなにか。それは「国家にアイデンティティ
や存在の意味を与える特定の宗教体系や価値体系」を言う。では「アメリカの見えざ
る国教」は何かといえば、「キリスト教そのものではないがきわめて近いもの」であ
るという。大統領はしばしば「神」については語るが「イエス・キリスト」について
は語らない。この言い回しであれば、セム的一神教は一括りにでき、カトリック・プ
ロテスタント・ユダヤの全てに受け入れられるからだ(イスラームも同様なのだが・
・・)。アメリカの「見えざる国教」は排除するためのものではなく、一定の枠組み
の中に多様なものを組み込むシステムとしての役割を果たしている。
「見えざる国教」は普段はなかなか見えないが、唯一見える瞬間が「大統領就任
式」である。この式の中で人々が注目するのは具体的な政策についてではなく、「ナ
ショナルアイデンティティ」、すなわち「アメリカ合衆国とはどのような国なのか」
について大統領が発言する瞬間なのである。アメリカ人は大統領の中に「政治的指導
者」以上の「精神的指導者」を見いだすのである。さて、大統領就任式の式次第を見
てみると、プロテスタントの一般的な礼拝順序にきわめて近い。しかもその事実にア
メリカの国民の大半は気がついており、そのことの意味を理解しているのだ。
この「見えざる国教」はキリスト教に酷似しているが、しかしそれとは一線を画し
た独自宗教である。「見えざる国教」の聖地はワシントンDCであり、ワシントンD
Cの建造物の配置からいかにその精神性が重要視されているか見て取れる。ワシント
ンの国立公文書館には「独立宣言」と「合衆国憲法」のオリジナルが展示されている
が、その展示方法は展示と言うよりもキリスト教教会の聖遺物の「安置」に近い。ア
メリカにとっての聖人はワシントン・ジェファーソン・リンカーンであり、彼らの像
はおのおの記念堂や記念塔に安置されている。そして彼らにはおのおの「預言者」
「聖典執筆者」「殉教者」として国民の尊敬を集めている。
また「見えざる国教」は聖書の中に自分たちの現実を解釈する「原型」を持ってい
る。まずアメリカ建国自体を「新しいイスラエル」ととらえている。そして独立革命
は「出エジプト」であり、大西洋は「紅海」、ワシントンは「モーゼ」、新大陸は
「カナーン」と対比させている。そして3代目大統領であり「独立宣言」と「合衆国
憲法」を起草したジェファーソンは初代教会の使徒でキリスト教の信仰を確立したパ
ウロになぞられている。
さてリンカーンであるが、彼はキリスト教の「血による贖い」の象徴である。南北戦
争において戦っている北部も南部も同じキリスト教の神を信じるものであり、南部の
行う奴隷制正当化の根拠も聖書にあるものであった。リンカーンは南北戦争の当初は
奴隷制の絶対的廃止を考えてはいなかった。しかし戦争が進むにつれ、彼はこの戦争
の真の意味を問うことになる。そして「ゲティスバーク演説」でそれは結実し、彼は
それまでの奴隷制のもとでの国家の罪を贖い為政者の意志を越えたところにある「神
の意志」を感じ、それを回心ととらえ、南北戦争は「血の贖い」であると感じた。さ
らに彼が凶弾に倒れたことも相成って、リンカーンはキリストの血の贖いの象徴とし
て「見えざる国教」においての殉教者の地位を獲得した。
以下
・見えざる国教とセクト的宗教との関係
1)モルモン教 <<「見えざる国教」と妥協したセクト
2)アーミッシュ <<「見えざる国教」と衝突しなかった事例
そして「見えざる国教」と衝突した事例
3)人民寺院(ガイアナで集団自決したセクト)
4)ブランチ・デビディアン(連邦政府と銃撃戦末、自爆)
・アメリカのファンダメンタリズム
・アメリカの夢
とつづく...
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この著作を読むと、アメリカという国がいかに「信心深い」国であるかということに気付かされる。アメリカは決して政教分離の国ではない。むしろ原理主義的な国であるのだ。ぼくらは種種のメディアが伝えるこの国に情報のおもて面だけを見てはいけない。その裏に隠れた精神性を見いださない限り、事実の本質が見えてこない、そんなあたりまえのことを僕らの前に開陳してくれる本だと思う。
ぼくもアメリカがイスラム原理主義にもまして原理的だという事実には気がついていたが、この本を読むことによってその読みは確信へと昇華した。
原理主義の恐ろしさは、その原典(聖書)に述べられたことと同じことがこの世で起こる、と純粋に信じていることである。もし仮に「テロとの戦い」を聖書で言う「ハルマゲドン」だと彼らが解釈しようものなら、核爆弾の使用も躊躇しないであろう。
一神教の世界解釈はその排他性から恐ろしいものを感じる。